北沢方邦詩集 目にみえない世界のきざし




北沢方邦詩集
目にみえない世界のきざし

洪水企画発行 草場書房発売
A5変形 フランス装 192頁
定価(本体2500円+税)
ISBN978-4-902616-30-9  C0092
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北沢方邦(きたざわ・まさくに)

1929年静岡県生まれ。桐朋学園大学教授、信州大学教授、神戸芸術工科大学・同大学院教授を経て、現在信州大学名誉教授。専攻は、音楽社会学、科学認識論、構造人類学。科学認識論関係の著書に『構造主義』『知と宇宙の波動』『近代科学の終焉』『脱近代へ』など、構造人類学関係の著書に『ホピの太陽』『蛇と太陽とコロンブス』『ホピの聖地へ』『日本人の神話的思考』『天と海からの使信』『日本神話のコスモロジー』『歳時記のコスモロジー』『数の不思議・色の謎』『感性としての日本思想』『古事記の宇宙論』など、音楽関係に『現代作曲家論七つの肖像』『音楽になにが問われているか』『メタファーとしての音』『音楽入門』など、自伝に『風と航跡』がある。



『目にみえない世界のきざし』あとがきより

詩論 ―あとがきに代えて―
 
いま眼前にしている世界は、ほんとうの世界だろうか? 夜、意識を失って見る夢はいかなる世界を告げているのか? 死者たちは、どの世界へと消えていくのか? 生きているかぎりは見ることのできない世界が、どこかにあるのではないか? 
古来つづいてきたこうした問いは、ひとつは哲学となった。ヒンドゥーでは、この世は神々が造りだし、神々自身もそこに属するマーヤーの世界、つまり幻影または迷妄の世界だとする。人間は神々の宇宙論的な戯れが生みだすサンサーラ、つまり輪廻の輪からのがれることはできない。ではそのような戯れを超えた世界、ほんとうの世界はどこにあるのか? 
プラトンも同じことを考え、有名な洞窟の比喩で、われわれが見ているのは、壁に投影された洞窟の外の真実の世界の幻影にすぎないとした。ヒンドゥーは輪廻から解脱し、ほんとうの世界あるいは隠されたリアリティを感じ、見いだし、一体となる修行の方法を編みだした。仏教も道教もそれを継承した。 
おそらく、言語であれ、音であれ、造形であれ、すべての芸術もこの問いに応えるために生まれたにちがいない。  
言語を考えてみよう。人間の言語が動物の言語と決定的にちがうのは、音韻が、単語が、文が分節され、記号化されて意味や象徴を担うようになったことだ。なぜそうしたのか? 人間たちはまず思う、この目にみえる世界がなぜこうあるのかを知りたい、と。なぜ太陽が輝き、月が満ち欠けし、季節によって風が変わり、樹々の葉が落ち、あるいは緑に芽生え、果実を実らせるのか? 
動物も熾烈な好奇心をもつが、人間のみがそれを言語によって表現することができた。それによって彼らは、自然の諸現象を認識し、記憶という図書館に分類し、蓄積した。だがそれら諸現象をもたらすのはなにか? 目にみえる世界を繰る目にみえない世界があるのではないか? こうして目にみえない世界の法則は神々の像となり、神話や伝説となり、そこから神々や英雄たちが戦う叙事詩となっていった。 
神話や伝説や叙事詩は種族集団のものだ。個々の人間たちは、それらを霊感の泉としてそれぞれの器に汲みだし、みずからの感慨を交え、言語の型に注ぐ。言語の型、つまり韻律や形式を整える諸法則はなぜ必要か? とりわけ朗誦されるときそれらは、ことばの流れを分節し、きらめかせ、聴くものたちの舟を、そのときどきの速さで快くゆらす。 こうして詩が生まれる。



詩にめざめたのはいつだろうか? 幼時、松並木の海辺の家で、四季折々のゆたかな自然のなかで暮らしながら、ときにはさざ波に砕け散る満月の光に酔い、数々の求婚者を退け、父の許、つまり月へと昇っていったかぐや姫伝説や、衆生済度のため自らの身を捧げた仏陀が化したという月の兎の説話を思い浮かべていた頃かもしれない。
夏、母のため井戸水を汲みながら、「朝顔に釣瓶取られてもらひ水」の加賀の千代女の句が浮かび、秋、暮れなずむ夕暮れの田舎道で「この道を行くひともなし秋の暮」の芭蕉の句を思いだしたりした頃かもしれない。 
百人一首のカルタ取りで新古今などの華麗な歌にも親しんでいたが、戦時中手にした『万葉集』には、それ以上に強く惹かれるなにものかがあった。「来ぬひとを松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ」の定家の歌などは、むしろ大人になって恋に身を焼くころ身近になったが、『万葉』には、たとえ叙景の歌であろうとも、その背後にひろがる広大な宇宙論が感じられたからである。 
そうなのだ。惹かれたのは、ことばのなかから立ち昇るこの宇宙論の影であったのだ。学徒動員で芝浦にある海軍管理の通信機工場に配置され、サイパンやテニアンから飛来するB29戦略爆撃機による偵察飛行がはじまっていた頃、同じく学徒動員のためまったく人気のない慶応義塾大学正門前の本屋の、ほとんど空の棚の隅に置かれ、埃をかぶっていたゲーテ全集の何冊かを動員手当で購入したが、その『西東詩篇』の不可思議な魔力に囚われることになった。 
夜間、空襲の合間に、黒い布で覆われた灯火管制の仄明りのもとで読んだそれらの詩からは、耳慣れぬペルシアやアラビアの人名や地名、あるいは中世イスラームの風俗習慣などの異国的な経糸・緯糸の交錯のなかから、計り知れない深い影が立ち昇るのが見え、野営の篝火に身を投じる蛾の一瞬の輝きに、死と再生の無限の循環のなかでおのれの運命を自覚し、行動することこそが、循環の宿命を離脱し、永遠の生をえるという真理を、そこはかとなく体得し、身近な死の恐怖を少しでもやわらげることができた。 
それらゲーテ全集も家も焼失し、空爆や機銃掃射を受けながらの逃避行も終わり、突然平和がもどってきた戦後、物質的な飢えや窮乏に苦しめられながらも、街に溢れはじめた古書や粗末な紙の新刊書に、知や感性の飢えは急速に満たされていった。とりわけリルケの詩集やヤコブセンの小説集などは、私にとってある種の啓示であった。 
それらは、より人間的であり、主観性の影を色濃く残し、その意味で『万葉』とはまったく異質のものではあったが、どこか目にみえない世界への憧れと、それを探し求める知的で感性的な意欲が、現代の詩的宇宙論を暗示しているように思われたのだ。 
それに刺激されて、私自身、詩や小説を書きはじめることとなった。
(後略)





                                                      

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